戦場ヶ原ひたぎはなぜ運転免許を取得できたのか

 (もう読書のメモではなくなってしまった)

一言で言えば、「ライトノベルのキャラクターではなくなったから」だと考える。

 

そもそも普通自動車免許というのは、日本ではかなり公共性が高い免許である。マイナンバー制度が実施されているとはいえ、様々な場所で身分証明書として機能するこの免許はその他の免許証とは一線を画しており、取得することによってかなり簡単に日本社会に参入できる(フリができる)。

 

そのような普通自動車免許を、戦場ヶ原ひたぎは「終物語」で取得し、阿良々木暦をデートに誘う。これによって戦場ヶ原ひたぎライトノベルのキャラクターを脱し、純文学的キャラクターになった……という話をしたい。

 

普通自動車免許取得の過程は、免許をとったことがある人ならわかるが、かなり異様である。四六時中運転のことについて考え、実際に運転し、まず出会わないような細いカーブを曲がらされ、教官に怒られ……

 

極めつきは「夜は気をつけて運転しなければならない。〇か×か。→×(昼も気をつけて運転しなければならないため)」とかいう意味不明な問題を解かされる。国語能力ゼロか???

 

このような状況で求められる能力は、『とりあえずなんとなく上の人が言っていることに従っておく』能力である。わけわからんと思いながら〇×問題を解く能力、意味ないなと思いながらミラーを3回チェックする能力……

 

この『自分の感情はおいといて、大人の言うことにとりあえず頷いておく』能力は、とても社会的であるが、ライトノベル的キャラクターにはそぐわない。

 

ライトノベル的アニメに出てくるキャラクターはおおむね大人の言う事は聞かない。特権的な能力を使って世界を救ったり、周囲が止めるのに危険に突っ込んでいってヒロインを助けたり、教科書に載っていない方法で敵を倒したりする。

 

そのようなキャラクターと、普通自動車免許取得に必要な能力は致命的に合わない。なので、だいたいのアニメキャラクターは普通自動車免許を取得しない。

 

(アニメにも結構運転してるキャラはいるだろ、という反論が想定されるが、多くの場合、そういうキャラクターは『普通自動車免許をもう持っている大人』として出てくる。この場合、そのキャラクターは『普通の大人』として登場し、その後アニメ内で特別な立ち位置に立つことになる。免許を持っていない状態から持っている状態に推移したキャラクターはあんまりいない……と思う。知ってたら教えてほしい)

 

ではなぜ戦場ヶ原ひたぎ普通自動車免許を取得できたのかというと、「終物語」の時点で、戦場ヶ原ひたぎは(プロット的に)アニメキャラクターがやるべきことを全て終えているからだと考える。

 

そもそも戦場ヶ原ひたぎの抱える問題は「化物語・上」のメイン回、「ひたぎクラブ」でほとんど解決されている。その後「まよいマイマイ」で阿良々木暦に告白し、「偽物語・上」で過去の因縁に決着をつけ、「猫物語(白)」で恋敵と親友になった戦場ヶ原ひたぎは、どんどん普通の人間に近づいていく。

 

最後に「囮物語」で蛇神に殺害予告をされるというイベントが起こるが、これを「恋物語」で無事解決し、ついでに元カレとの感情についても決着をつけた彼女は、もうライトノベルのキャラクターとしてやるべきことは何もない。まさに"今してる恋が常に初恋って感じ"で、人生を謳歌する。("そしてそれで正しい")

 

ここに至っては、もうライトノベルに出てくるような特別な能力も、性格もいらない。かくして、戦場ヶ原ひたぎは私立直江津高校を『卒業』し、同時にアニメキャラクターをも『卒業』し、普通自動車免許を取得することになる。

 

(「東雲侑子シリーズ」の最終巻「東雲侑子は全ての小説をあいしつづける」のあとがきでは、"東雲侑子は1巻時点ではエキセントリックなヒロインだったが、物語の中で成長し、普通の女の子になった。そんな普通の女の子になった彼女は、きっともうライトノベルという枠組みの中ではヒロインたり得ない(だから完結である)"というようなことが言われている。全面的に同意したい。というか、これを引用したくてこの記事を書いた)

 

免許を取得して阿良々木暦をデートに誘う戦場ヶ原ひたぎには、もはや『怪異』の『か』の字もない。しかしだからこそ、戦場ヶ原ひたぎはかわいらしいのであり、阿良々木暦の彼女たり得るのである。

 

 

(ついでに言えば、「花物語」には免許を取得した阿良々木暦が出てくる。これは阿良々木暦が「花物語」=神原駿河が主人公の物語における『大人』的ポジションにいることを意味していて、阿良々木暦というライトノベルの主人公的キャラクターも、視点が違えば十分『大人』になれる。)

11冊目:BL進化論

・BLでは同人誌と商業の関係がかなり深く、同人からスカウトされてプロになるケースが大半だそう。百合ではどうなんだろう……

 

・BL史を3期に分けてとらえる。

スタートを森鴎外の娘(!)、森茉莉の「恋人達の森」とする。(雛型ができているため。)

 

・冒頭部分でもうかなり共感できるところが多い。"「ボーイズラブ」ではなく「BL」と呼んだほうが自然に感じられる"みたいな記述とか。(「百合」)

10冊目:戦闘美少女の精神分析

・「ファリックガール」的な話ばっかりだと思ったら最後らへんだけだった。"おたく"の定義みたいなものは古典で需要する必要性はないと思っているので流した。

 

・""「ファリック・ガール」は空虚である。存在の無根拠、外傷の欠如、動機の欠如……その空虚さゆえに、虚構世界を永遠の住処とすることができる。""

いいセリフっぽい。(反例:まどマギ

 

・長々と引用されている「友人との手紙」のほうがむしろ興味深い。おたくの虚構に対する態度とか。自分を客観視しすぎるおたくは多重見当識的であり、ゆえにパロディを愛する。

 

 

9冊目:生き延びるためのラカン

・「エディプスコンプレックス」について、同じこと何回も説明されてようやく(なんとなく)わかった。やはり同じことを別媒体で何度も見るのは重要。

 

・「エディプスコンプレックス」というのは、つまり「人間が象徴界に参入する儀式=ヒトが言葉を獲得する儀式」。子供は生まれた時に"母"(世界において万能で最強の存在)に出会う。最初のうちは"母"は全てを持っているように見えるが、そのうち"母"にも持っていないものや、手に入れたいものがあることに気づく。これを便宜的に"父"とする。(別に父親でなくてもよい。財産とか、権力とかでも。)

 

子供は"父"そのものになりたい!"母"に愛してほしい!と思うが、それは無理だと気付き、存在そのものの代わりに言葉とか、イメージとかで満足するようになる。これを"去勢"といい、この時点で子供は言葉を獲得し象徴界に参入するようになる。

8冊目:テヅカイズデッド

・マンガ評論。「マンガは終わった」と語る人たちへのカウンター……でいいのかな?90年代後半は「マンガがつまらなくなった」と言われていたらしい。(実感0)

 

手塚治虫「地底国の住人」の耳男=ミミー=ルンペンの少年を題材にした記号的身体の話。耳男は最初「記号的身体」(壁にぶつかっても目が星になり「イテ!」と飛び上がるだけで損傷しない)を持った存在として描かれる。

 しかし、後半、ミミーやルンペンの男に変装して主人公を助け、病床につく耳男は1コマづつ「変装をとかれ」、耳男の姿で死んでいく。これを記号的身体→「死にゆく体」への描写である、とするのは興味深い。

 もっと露骨にするなら、「記号的身体をもった少女が現実的な行動をするごとに実際の人間に近くなっていき、死ぬことができるようになる」とかのプロットはどうだろう……とか考えたくなる。そこまで考えたところで結局「ジョン ぼく 人間だねえ……」と言わせている手塚治虫にはどうやってもかなわないなと思った(手塚治虫は天才)。

 

・少女漫画がときに「詩的である」とされるのは、「コマ(=漫画内の"時間の流れ"を規定するもの)」とセリフの関連性が薄くなっているからではないか、という説はなるほどという感じ。漫画内において時間を司るのは"コマ"だという意識はそれが逸脱されたときに強烈な印象を残すことができる。

 

 

7冊目:20才の自分に受けさせたい文章講義

・「書きたいことはあるのに、どう伝えたら良いかわからない人へ」と書いてあったが、微妙にターゲットから外れている。(論文的なものとはまた違う)

 

・文字量と構成について、「眼で覚える」のは良いと思った。具体的には

1.wordの文字数と行数を固定

2.ページのどのくらいが何文字か、つまり構成も見てわかる

 

 

6冊目:なぜ世界は存在しないのか

唯物論:この世界はすべて物質的である

問題点として、同定の問題がある。

例えばテーブルを見ているとき、唯物論的には最終的には物理的対象である「テーブルを構成する原子」に還元される。

しかし、テーブルの存在を示すためには無数の原子から「テーブルを構成する原子」を選びださなければならず、その段階ですでにテーブルという想像的なものが存在していなければならない。

 

・なぜ世界は存在しないのか?

→世界を「それ以外の一切の意味の場がその中に現象してくる意味の場である」と定義すると、世界が存在する意味の場がなくなってしまう。よって世界は存在しない

→これラッセルのパラドックスでは?タイプ0である世界とタイプ1である世界を区別すればいいだけな気がする。